8月になると、幼い頃よく島原のばあちゃんちに行ったことを思い出します。
夏休みを利用して母の実家へ帰省していました。
いとこも多くて、「島原のばあちゃんち」で過ごす夏が楽しみでした。
花火をしたり、駄菓子屋にみんなで行ったり、海水浴したりと楽しい時間でした。
ところで、私は、「島原のばあちゃんち」で「じいちゃん」に会ったことがありませんでした。
幼い私は、それを特に気にも留めていませんでした。
というより、それが当たり前だったので、そのことに気づくことさえありませんでした。
つまり、じいちゃんの存在を全く意識したことがなかったのです。
ただ、私も結婚して子供を授かって、実家の「じいじ」と「ばあば」に我が子を会わせると、ふと、「そう言えば、俺、じいちゃんに会ったことないな」ということを思い出しました。
羨ましいとかそんな感情はないのですが、幼い頃、自分にはじいちゃんがいなかったことをふっと思い出しました。
私も実は数年前まで全く知らなかったのですが、私の『じいちゃん』は、私の母がばあちゃんのお腹の中にいる際に、戦災死したとのこと。
それを母に聞かされました。
私の母も父(じいちゃん)に会ったことがないのですが、それが当たり前だったから、特に寂しいという気持ちはなかったということです。
ですから、特に母からじいちゃんのことを聞くこともありませんでしたし、これまで話題に登ることもありませんでした。
ただ、私も子供を持ち、じいちゃんの存在を意識したことで、じいちゃんのことを親から聞く機会を得ました。
ちなみに私は父方のじいちゃんも戦争で亡くなっていて、両方のじいちゃんには会ったことがありません。
島原鉄道空襲
母からは「じいちゃんは島鉄の襲撃で亡くなった」と聞きました。
でもそれ以外の、詳しいことはわかりませんでした。
そのことがずっと胸の深い部分に引掛かっていました。
『じいちゃんは一体どんな風に亡くなったんだろう?』と思っていました。
と言っても、四六時中そのことばかりを考えていたわけでもありません。
でも、とある日、いつもの商品の仕入れ先・セリ市の出品物(私は掛軸や古い紙類を取り扱っていて、月に数度業者の競り市に行っています)の中に、以下の本が出て来ました。
『島原半島の戦災誌 1986』(島原半島の空襲を記録する会)という本です。
この本を見た時に、『この本の中に自分の知りたいじいちゃんのことが書いてあるかも』と思い、すぐに購入しました。
セリ市からこの本を持ち帰り、ページをめくると、私が知りたかったことが数ページ書いてありました。
『島原鉄道空襲時の乗務員の話』という頁に当時の様子が書かれていました。
その日は、8月8日で二本木さまの地点辺りで、グラマン機が二機以上が下り列車をはさみ撃ちし、機銃掃射を加えてきた。
一瞬にして列車内は修羅場になり、怪我をして泣き叫ぶ人、死んだようになってぐったりしている人など様々だった。
と記載があります。
亡くなった方の名前の記載はありませんが、この中にうちのじいちゃんもいたんだろうと思います。
島原と言えば、のどかな場所で、ばあちゃんちへの帰省の際に、自動車の車窓からのんびり走る単線の島鉄(島原鉄道)を何気なく眺めていましたが、まさか、島鉄でそのようなことがあり、また、うちのじいちゃんがそんな形で亡くなっていたとは、思いもしませんでした。
この本に出会えたことで、私の母と、自分のルーツを再確認できて良かったと思うと共に、戦争の暗い影が、実は私の身近な人にも降りかかっていたことを知るきっかけになりました。
小さい子たちを残して亡くなったじいちゃんの気持ちはどんなものだったのか。
自分がもし同じことになったことを考えると、無念だったろうと思います。
第二次大戦では、日本が自ら戦争に向けて突き進んで行きましたが、今後そのような愚行に走らないように、平和を維持していかないといけませんね。
私自身、これまで戦争について考えることが少なかったですが、このように身近な人が犠牲になったことを知り、今回深く、戦争について考えることになりました。
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